未来はキミドリイロ

サイコメトリックアイドルを目指す心理学徒の勉強部屋です。勉強・趣味などについて書いています。

個性的であるとはどういうことか,どうすれば個性的たりえるのか

今日ではそこかしこで耳にするようになった「個性的」という言葉があります。
私は,この言葉をどのように用いてよいのかわかりません。
そこで,この記事では覚書や考えをまとめるための雑文を書くことで,「個性的」であるということの理解を目指します。
以下の文章は私の解釈や価値観が色濃く反映されており頭の中の整理整頓作業となっていますが,個性的であるということについて,私の有する思考材料を必要に応じて使った考察をしているつもりです。
あわよくば,「個性的でありたい」「個性的ってどういうことなんだろう」という問いになんらかの見解を示せればいいのですが。

ひとつの極論としての定義

まずは,「個性的」という熟語の行間(熟語なので行も何もありませんが)を補うことで,この語の解釈についてひとつの極論を導きます。

≪定義1≫
「個性的」であるとは,個別性を有しているということである。


その意味で,表面的には形態や生育環境,目に見えない部分では思考や遺伝子の配列まで自分と一致する個人を発見することは物理的に不可能であるため,人は悉皆個性的であると言える。

この定義の仕方はおそらく誤りではないでしょう。

しかしながら,昨今耳にする「個性的」という言葉をこの意味で用いている人はいないものと思われます。
ひとつの理由としては言うまでもないから,もうひとつ考えられる理由としては言語レベルで理解できていてもスケールが大きすぎて実感できないから,なんてこともあるかもしれません。

辞書的な意味のひとつとして“個性的であるならば個別性を有している”という命題は成り立つかもしれませんが,用いられる文脈を鑑みると“個別性を有しているならば個性的である”という命題は必ずしも成り立たないように思われます。

辞書的な定義

辞書的な,という言葉が出てきたので,現在その語が用いられる文脈まで考慮して語の定義がなされている(と思われる),辞書から定義を拾ってみたいと思います。
手元に辞書がなかったので,Web検索で得られる辞書からの定義を引用します。

①goo辞書
こせい‐てき【個性的】
[形動]人や物が、他と比較して異なる個性をもっているさま。独特であるさま。「―な人」「―なデザイン」

この定義を見ると,生まれながらにして個性的であるといった大意を持つ≪定義1≫の意味でも間違ってはいないように思います。

しかし,2つほど挙げられている用例や実際に用いられる文脈,例えば「今日の彼は個性的な服を着ているね」といった発言の意図はやはり,≪定義1≫を意味しません。
≪定義1≫ではとらえきれない,日々の文脈の中において特殊な意味で用いられているこの種の「個性的」という語は,かぎかっこ付きで表現し日常語としての個性的という語として取り扱います。
これまでに書いてある部分も,かぎかっこ付きのものはすべてこのルールに準じます。

後述しますが,個性的と「個性的」の差異の原因として,人と記号(デザインや創造物)の混同があるように感じます。

個性に関する定義

個性に関する厳密な定義はそれだけで膨大な紙面を割く必要があり,かつ定義しきれないように思うので,本来は避けてはいけないのですがここでは回避してごく簡単な定義をします。
この文章では,先の個別性に関する辞書的定義を一部拝借して個性を定義します。

≪定義2≫
個性とは個別性を有することであり,個別性とは他と比較して異なる外見的・内面的特徴を有しているさまである。
また,ここで述べる外見的・内面的特徴は多種多様なものがあり,個々で見れば一致するものも少なくない。
したがって,個別性があるというときには,多様な特徴が複雑に絡み合ったものの表現型としての個性が含意される。

適度に厳密な議論を避けつつ,≪定義1≫で行った定義をより細かくかみ砕いて意味を拾い上げながら個性という語の定義を行うとこのようになるでしょう。

個人的に後で見返す参考文献として以下を挙げておきます。
Baumeister,R. F.(1987).How the Self Became a Problem: A Psychological Review of Historical Research.Journal of Personality and Social Psychology, 52, 163-176.
http://persweb.wabash.edu/facstaff/hortonr/articles%20for%20class/Baumeister%20self%20as%20problem.pdf
リンク先PDF注意。
individualityについても触れられたレビューです,が,ぱっと見で個人と社会という文脈で語っているようです。

文法的な視点での理解

どうやら私自身の見解として個性的という語に≪定義1≫のような意味を強く反映させたい,つまり,個性+的として成り立っている熟語のうち個性の部分を際立たせるべきではないかという考えがあることを,書いていて気づきました。
それに関連して,個性というについても対象がほぼ人間や生物であること,複雑な特徴の総体としての個性という概念が念頭にあることが自覚されました。
こうした考えが≪定義2≫には反映されています。

そこで,個性と個性的および「個性的」の違いについてごく簡単に書いてみようと思います。

表面的な違いで言えば,誰でもわかることではありますが「的」という語がついていないことです。
なので,まずは「~的」というときの的の字について学び,考えてみます。

参考文献は次のリンク先にある文書です(PDF注意!)。
望月通子(2010).接尾辞「~的」の使用と日本語教育への示唆――日本人大学生と日本語学習者の調査に基づいて―― (関西大学)外国語学部紀要
https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/02/01mochizuki.pdf
呉 雪梅(  ).中国人日本語学習者の「的」付きナ形容詞の習得に関する研究―BCCWJコーパス調査とアンケート調査の分析を通じて―
https://www.ninjal.ac.jp/event/specialists/project-meeting/files/JCLWorkshop_no2_papers/JCLWorkshop2012_2_12.pdf

個性は言うまでもなく名詞ですが,個性的という言葉はそもそもナ形容詞としてしばしば扱われるようです。
つまり,個性的な人,個性的な考え方,といったかたちで用いるのが多いということでしょうか。

ナ形容詞,という名前からもわかるように,個性的という語は修飾語として機能するものとなります。
そのときに,名詞から修飾語となったことで接続できる語が増える,ということは往々にしてあるでしょう。
名詞であれば「個性を持っている」という表現を用いるとき無生物を主語に取れないということがありうるかもしれませんが,「個性的な○○」というときには生物だろうと無生物だろうと関係ありませんから。

それでは,すこし考えてみましょう。
次の2つのケースについて,AとBは同じ意味を差していると思いますか?それともわずかでも違いますか?

  • ケース1

A:彼には個性がある
B:彼は個性的である(彼は個性的な人だ)

  • ケース2

A:あの建物には個性がある
B:あの建物は個性的である(あの建物は個性的な建造物だ)


あくまで私見ですが,私の言語感覚ではケース1,ケース2ともに別の意味であるように思います。
ケース1のAではより抽象的な概念を扱っており,ケース2ではなにがしかの特徴について言及している,というのが率直な印象です。
ケース2では,そもそもAの表現は聞かないこともないですがあまり使いたい表現ではありません,Bは一般によく聞く表現で,Bの方がAよりも独特である程度が大きいように感じます。
この私見を軸に私個人の仮説につなげていこうと思います。

「個性的」の意味はシンプルか複雑か

個性が「個別性,すなわち他と比較して異なる外見的,内面的特徴を有している」ことだと定義され,個性と個性的との違いがありそうだということがぼんやりと確認されたところで,再び「個性的」であるということの理解に近づいていこうと思います。
今関心があるのは,「個性的」という語の持つ意味が次のどちらか,ということです。

  1. 定義1,2から推測できる個別性の意味を削ぎ落として,単純化されたかたちで用いられている
  2. 定義1,2から推測できる個別性の意味にさらに特殊な意味が付け足され,より広い言葉として用いられている

これについて,私は前者のより単純化されたかたちで用いられているという考え方を支持します。
というのも,≪定義2≫で行った個性の定義は前節ケース2のAには当てはめづらいために違和感が出てしまう一方で,Bでの表現は自然であることや,ケース1での個人的な印象を言語化したのが≪定義2≫の持つ意味の広がりであるからです。

では,どのように削ぎ落とされているのかというと,≪定義2≫を改変した次のような定義に変わっているものと私は考えます。

≪定義3≫
個性とは個別性を有することであり,個別性とは他と比較して異なる外見的・内面的特徴を有しているさまである。

すなわち,個性という概念が一種の複雑系であるという含意が抜け落ちて,他と比較して異なっているという点が強調されているということです。
私の感じていた「彼は個性的だよねー」という言葉に対する違和感は≪定義2≫と≪定義3≫の間で削ぎ落とされたものにあった,ということなのでしょう。

人と記号の混同と「個性的」であること

ここで,後述すると既に述べてあった人と記号との混同について触れようと思います。
ここまでで,(あくまで私の意見ですが)個性的であるということは個性が複雑系であるという含意を伴った表現,「個性的」であるということは個性の複雑さを切り捨てて差異があることに注目した表現であるということが整理されました。

ここから,個性という言葉や個性的という表現を使う際には総体であり複雑系としての個性が想定され,「個性的」という言葉を使う際にはspecificな部分を取り上げて「個性的な○○」という表現とすることがわかります。
そして,文法的な理解の部分で触れた接続対象の広がりという点から,個性や個性的という語は必然複雑さを併せ持った人間や,一部の芸術*1に対しては個性および個性的を,服装や髪形といった具体的な特徴については「個性的」という言葉を用いるのが今日の文脈に即した用法だとと言えるでしょう。

しかしながら,今日では≪定義2≫と≪定義3≫の間にある意味の脱落が意識されず,個性的と「個性的」との使い分けがなされていないように思います。
さらに踏み込んで言えば,≪定義3≫での使用がほとんどであると言っても過言でないのではないでしょうか。

人と記号の混同はここに端を発するものであると私は考えます。
そもそも,つとめて個性的であろうとはせずとも≪定義2≫の意味で人は個性的であると言えます。
しかしながら,現代では個性的であることが重視されるあまりに≪定義3≫の意味での「個性的」な人が増え,個性的であろうという人も「個性的」な振る舞いをしようと試みているように見受けられます。
しかし,それは個性的たろうとする主体が「個性的」であることを個性的であることと混同しているに過ぎず,服装や発言といった表面的かつ具体的な表象記号である「個性的」なあり方を,その主体が総体として有する個別性であると錯誤していることによる現象であると言えます。

この意味で,「個性的」であるという言葉は個性的という言葉だったときに持っていた厚みを削がれ,軽薄な言葉に成り下がってしまったように感じられるのです。
もしかしたら,「個性的」には別の言葉を当てた方がいいのかもしれません。
アナロジーをはじめとして,類似したものをある概念に置き換えて発する言葉はもはや本来の厚みや深み,広がりを残しておらず,ただただよく似た別の何かに変質してしまう,というのは最近強く感じていることのひとつです*2

神の言葉を神の言葉として取り入れる,というのはいささか前時代的な気もしますが,わかりやすい解説書が人気となった今*3,原典をきちんと読み,その意味を身体化させるまで幾度も体当たりするというのは,表現されている真なる意味のようなものを身中に取り入れる方法として見直されるべきであるかもしれません。

データとしての「個性的」なあり方

実は,はじめにこの記事を書こうと思ったきっかけは,お風呂の中で「個性的」な人がどのようにデータとして表現されるかを考えていたことでした。
このときから個性的であることと「個性的」であることには違いがあり,おそらく「個性的」というのは具体的特徴をピックアップしてつけられるラベルであろうと考えていたので,これがデータとしてどのように表現されるのかということに関心があったのです。

この記事で展開してきた考察に則って会話で用いられるような「個性的」な人,すなわち≪定義3≫を表現すると,私は次のようになるのだと考えます。

「個性的」な人とは,例えばおしゃれさのようなある単変量について有限母集団からサンプリングしたときに,外れ値である人,ないしは分布の中で度数が1である人のことである。

ここでいう「個性」とはこれ以上の意味をおそらく持たないでしょう。
集団の中で他と違うというだけのことです。
そして,この位置づけは相対的なものであるため,母集団の定義の仕方が変わったり性質が変わったりすると,自分以外に同じ値を取ってしまう人が出てしまう,つまり度数が1ではなくなり「個性的」ではなくなってしまうことを意味します。
また,有限母集団を対象とした単変量のサンプリングということで,要素の数にもよりますが,よほど特殊な値を取らない限りは度数が1になるということはないでしょう。

いつ「個性的」でなくなるかもわからないままに「個性的」であろうとするのは精神衛生上よくないような気がしますね。


一方で,≪定義2≫に則った個性の定義をデータで表現することを考えると,次のようにかなり異なったかたちとなることが予想されます。

個性的な人とは,有限母集団においてパーソナリティや環境要因など,あらゆる変数をサンプリングすることで構成された多次元空間上の一点である。
膨大な数の変数によるベクトルは確率的に一致する可能性こそ存在するが,母集団の成員が60億程度と有限であることも考えればかなり小さい。
例えば同じ国の人間という条件を付ければさらに成員は少なくなるため,したがって座標上の一点であることと個別性があることとはほぼ同義である。

要するに,多変量に拡張すれば,そしてその変数としてあらゆるものを考慮してあげればどう考えても人と被らないのに,という話です。
このようにデータに落とし込めば,例えば単純化して考えたいときには主成分分析などで次元を縮約して1次元の個性という変量まで変換してあげればいいわけですよね。
この変換が≪定義2≫で述べている個性に相当します*4

ここで暫定的に作った個性という変数が同じ値を取ることがあるかもしれませんが,無理やり1次元で表現しようとして情報を落としているのでそれはやむを得ないものだと思いますし,かえって事実性格や身体的特徴の似通った人などのラベルをつけてくくることで理解や説明がしやすくなるかもしれません*5

結局,個性的ってどういうこと?

「個性的」であるということは単変量における特異な値を「人と違うね」と言っているに過ぎないもので,その意味では仲間はずれや社会的常識に欠けた人も「個性的」になりかねないものです。
そのため,「個性的」であろうとする場合にはとにもかくにも奇を衒い,人と異なることをアピールするしかありません。
しかも,自分と同じようなアピールをする人がいればいるほどその人が個性だと思いこんでいる「個性」は「個性的」ではなくなってしまうということになります。

一方で個性的であるということは,個性を持とうという努力を必要としません。
空間上の点として存在している時点で個性のある存在ということです。
これだけだと月並みな“あるがままの自分を受け入れるんだ,あなたは個性的だ!”という内容のない自己啓発になってしまいそうなのですこしだけ補足をします。

最初に私個人が暫定的に出した結論を言いますと,“個性的であるということは「多変量の合わせ技が生み出す妙趣」である”ということです。
一応当初の目標は「個性的でありたい」「個性的ってどういうことなんだろう」という問いになんらかの見解を示すということでしたから。

具体的にどういうことかと言いますと,まずは多変量からなる合成変数なんだと言うことを自覚しましょうということです。
服装が個性,髪型が個性,というのはあくまで数ある変数の中でも外目にわかりやすい表現型に過ぎないのであって,無数の変数で個性が構成されているということに自覚的になることが,まずは「個性」追求脱却への一歩になろうかと思います。
単変量での「個性」は外向きに張り合ってどちらがより外れた値であるかを競い合うものですが,ここで述べる多変量での個性は,内向きに自分を見て,探すことにあたります。

自分という個体を構成する変数には何があるのか,そしてその値はどのくらいか,ということを果てしなく考え続けるのが個性的であることだということです。
こういったスタンスなので,実は総体として他者とは異なったものであるという事実だけあれば,値の大小も関係なく,他者と比べる必要はありません。
事例として失敗経験のある教師が生徒の共感を得て勉学を促すことがあるように,できなかったことや不得意なことも含めて,「どのような変数があるのか」を知ることが大事ということです。
そして,先の例に則れば教師が自身の失敗体験を語ることで共感を得る,という文脈のように値が小さかろうが大きかろうが,変数同士の組み合わせによって良い結果も悪い結果も得られる,というのが面白いところです。

蓋し,個性的な人,というのはここで展開した定義が正しいとするのならば自分をよく知っている人,そして自分を見せる(どの変数を選ぶか)が上手い人ということになるのかもしれません。
先ほど個性的であるということは,個性を持とうという努力を必要としないと書きましたが,個性的である人は自分を冷静に見つめ対話するという点において個性的である努力は十二分にしていると言えるでしょう。
ただ,努力の方向性は既に述べた通り,「個性的」が外向きに人と張り合うのに対して個性的の方では内向きであるというわけです。
人を見る前に我を見よ,ということです。

私もそうですが,案外人というのは自分のことをよくわかっていないものです。
なので,無数に転がっている材料そっちのけで目立つ材料を拾い上げ,丁寧に丁寧に洗っているだけだったりします。
目立つ材料の素材の味を活かすのもいいですが,たまには自分と向き合って素材選びをし,上手に組み合わせておいしい料理を作ってきれいに盛り付けてみようよ,ということです。

比喩は避けようと思っているのに最後の最後をわかりやすさのために比喩に譲るという謎の文章となりましたが,これにて個性的であること/日常語としての「個性的」であることとは何か,そして個性的であるためにはどうすればよいのか,をテーマとした考察を終わります。
学部のレポートを思わせる8500字の長文を読んでくださった奇特な方がいましたらば,お付き合いありがとうございました。

*1:この作品には彼の個性が表現されている,といった意味での,作り手の内的表象が具象化されたものとしての芸術

*2:私が周囲に話すときには「たとえ話の弊害」という言葉で呼んでいます。

*3:ピケティが難しい,というので解説書が流行りましたね

*4:いろいろなものをがばっと合成変量にして個性という名前を付けることが適切か,という問題はありますが……。取り込む変数によっては別種の構成概念に近いものになるかもしれませんし,このあたりは心理学徒から批判があるかもしれませんが,今回は説明のためということでご容赦を。

*5:一部領域の心理学がやっていることはこれに近いことだと考えています。