未来はキミドリイロ

サイコメトリックアイドルを目指す心理学徒の勉強部屋です。勉強・趣味などについて書いています。

【グラブル】元ネタのHR/HMを探せ!(水属性SSR編)

「グラブってる?」という悪趣味なCMでお馴染み(?)のグランブルーファンタジー,私もそこそこにプレイしています。
学生という身分ではなくなり,プレイできる時間も減ってしまってはいますが,息抜きにも本気を出したいところです。
なお,レジェフェスはちょい爆死しました。

まとめページを作りました。
arca821.hatenablog.com

目的(シリーズ共通部分)

この記事を書こうと思った発端は,アーミラ(SSR)の変身後奥義で「インヒューマン・ランペイジという言葉を見かけたことにあります。
そう,一部の方はお察しのように,グラブルスタッフ陣の中にはメタラーがいて,アビリティや奥義の名前にHR/HM*1由来の言葉が使われているのです。

私もメタラーの端くれですから,自分なりにグラブルを楽しみぬく一つの方法として,メタル由来のスキル・奥義を見つけ出そう!そんでもって他にもメタルネタに気付いた人もいるようだし,きっとこの情報を喜んでくれる人もいるのではないか!と思ったのです。
当然のことながら,全ジャンルに詳しいわけではないので漏れもあるかもしれません。
しかし,そういうところを見つけて「●●も……ってバンドの~」なんてメタラー騎空士の輪が広がっていけば素敵かもしれません。

キャラクター数が多すぎて一つの記事に情報を集約するのはかなりの労力を要することが予想されたため,属性・レアリティで分けて情報をまとめていきます。
追加のキャラクターが出た場合には各記事に更新していければと思います。
基本的な英単語一語のスキル名などは一部こじつけにも感じるかもしれませんが,ご容赦ください。

水属性SSRリスト

ID キャラ HR/HM
1 アルタイル ×
2 リリィ
3 シャルロッテ ×
4 ランスロット ×
5 ソシエ ×
6 シルヴァ ×
7 カタリナ(リミテッドver) ×
8 ヨダルラーハ ×
9 リルル ×

2016年5月日時点でのメタラー率:1/9=約11%

元ネタのHR/HM(水属性SSR)編

リリィ

  • 奥義:フローズンヴィジョン

As They BurnというバンドがFrozen Visionという曲を出しているようですね。
PVを見てみましたが,視聴前に「この動画は,一部のユーザーに適さない可能性があります」と警告があり,動画本編冒頭にもショッキングな映像は繊細な人には合わないだろうから18歳未満は見ないことを推奨するようなことが書いてありました。
中身もたしかに尖った内容でした,リリィさん……。
Will Love Life


所感

水属性はメタラーが少ないのでしょうか。
見落としている可能性もかなりありますが,SR,Rに期待することにします。

*1:この記事をご覧の方には言うまでもないですが,Hard Rock/Heavy Metalです。この記事では分類については考えないので,ひとくくりにしてHR/HMという表現を用いています。

Rhマイナスと爬虫類型人類の話【今日の調べもの】

完全に気まぐれの記事ですが,調べものをしていてトピックがあっちいったりこっちいったりしていたので,たまにはそれを残してみるのも面白いかなぁと思って文章を書いています。

Rh-(血液型)

一般的な分類法としてABO式が知られており,A・B・O・ABの4種の血液型があるとされています。
これ以外にも内部の組成の違いなどから数多くの血液型が存在しているようですが,比較的知名度のある分類方法にRh式というものがあります。
Rhesus(アカゲザル)の持っている特徴を有しているかいないかによって+(プラス)と-(マイナス)に分かれ,マイナスの人は欧米で15%程度しかいないのだとか。

実は私は,O型のマイナスでして人に輸血するときにはABO式+Rh式で表現される8パターンのどの血液型にも輸血が可能な万能血液です。
一方で輸血を受ける際にはO-のものしか受け付けないので,すこしだけ損な役回りなようにも思われますね。

このRhマイナスですが,猿から進化したとされるホモ・サピエンスが持っているはずの特徴を持っていないことから,聖書に現れる巨人ネフィリムの子孫ではないかとする「アヤシイ話」があるんだとか。
People With Rhesus Negative Blood May Belong To The Nephilim Race | Trending News Archive

血液型と性格の関係は心理学徒としては言うまでもなく疑似科学と考えるべきでありましょうが,Rhマイナスの人は独特の性格がある,という噂もあるみたいですね。
そこらへんは日本語の情報しか見てなかったので,参考程度に流しておくのが賢明なのでしょう。

一応さらっとRhマイナスの特徴について,英語の情報を調べてみたら身体的特徴からスピリチュアルな面まであれこれと26個も列挙しているページがありましたのでリンクを貼っておきます。
この情報源がどれだけ信頼できるかは私には判断しかねますので,それだけはおことわりしておきます。
Rh-Negative Blood Type Traits and Characteristics: Large Head, Low Blood Pressure--and Possible Alien Ancestors?

お遊びを兼ねて,26の特徴は下に転記・翻訳してみました。

Rhマイナスの人における共通の身体的特徴(13個)

  • larger than average head size(平均よりも頭が大きい)
  • low blood pressure(血圧が低い)
  • low pulse rate(心拍数がすくない)
  • extra vertebrae or rib(脊椎または肋骨が多い)*1
  • high IQ(IQが高い)
  • heightened senses, including vision(視覚を含む,五感が研ぎ澄まされている)
  • uncloneable blood(クローンをつくれない?)
  • light-colored hair, mostly red or reddish(多くは赤みがかった,明るい色の髪をしている)
  • light-colored eyes (blue, green, or greenish brown eyes)(青,緑,ヘーゼルアイといった明るい色の瞳である)
  • sun and heat sensitivity(日光や熱に敏感)
  • tendency toward healing professions(癒すポジションになりやすい)
  • body scars that cannot be explained(説明のできない傷がある)
  • frequent empathetic illnesses(しばしば共感で苦しむ)

Rhマイナスの人における共通の考え方の特徴(7個)

  • an otherworldly feeling(霊感がある)
  • a feeling of having a mission in life(人生における使命を感じている)
  • a drive to seek out truth or answers(真実や答えを追及する)
  • an empathetic and a compassionate character(共感的で情け深い性格である)
  • a feeling that one is an outsider(自分を部外者だと感じる)*2
  • an interest in space and/or science(宇宙そしてまたは科学に興味がある)
  • a tendency to be easily shocked or scared(ショックや恐怖を感じやすい)

Rhマイナスの人における「マジカルな」特徴(6個)

  • some sort of extrasensory and/or psychic ability(第六感そしてまたは超能力がある)
  • heightened intuition(直観が研ぎ澄まされている)
  • psychic dreams(予知夢)
  • ability to interfere with electricity(電気に干渉する能力がある)
  • greater likelihood of alien abduction(エイリアンに誘拐されたことがある)
  • tendency to be in close proximity to inexplicable strange events(すぐそばで超常現象が起きやすい)

うーん,という感じです。

レプティリアン

Rhマイナスに関する情報を調べていたら,なんでだかエイリアンが先祖だ,なんて話に行きついてしまいました。
レプティリアン(爬虫類型人類;Reptilian humanoids)というらしいです,初耳です。

こういう話は嫌いじゃないのでせっかくだから,とレプティリアンについても調べてみたら,アメリカ大統領やイギリス皇室にも何人もいて,支配的な人類なのだー,イルミナティフリーメイソンとも関係があるのだー,とのこと。
さすがにこれは,と思ったものの,以前教え子に「爬虫類みたいな目だ」と言われたことがずっと気にかかっていたので,ついつい情報をいくつか調べてしまいました。

ファンタジーなのかリアルなのかはわかりませんが,Rhマイナスの特徴として挙げられていた26個の内容と,爬虫類というか蛇というかの(イメージ的なものを含む)親和性が高いように思われるのは面白いですね。

大いなる秘密「爬虫類人」(レプティリアン)〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露!!

大いなる秘密「爬虫類人」(レプティリアン)〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露!!

終わりに

レプティリアンについてはコメントを差し控えますが,個人的にこれを残しておきたかったのは,血液型からスタートしていきついた先がエイリアンであったという点でしょうか。
もし私がRhマイナスじゃなければ,レプティリアンというワードを一生知らずに過ごしていたかもしれませんし,逆にRhでなかったとしてもこのワードを知る運命があったのかもしれません。

とはいえ,今目の前に私はRhマイナスで,それについて調べていたらこの単語に出会った,という事実があります。
そんな数奇な縁をもっと楽しむことができたらいいなーと,こういう方面にも馬鹿げているなんてアンテナを閉ざさないようにしたいですね。

*1:肋骨についてはイメージしやすいですが,脊椎については2本ある,などではなく縦積みされている骨のパーツが多いということだと思います

*2:原文には“どこにいても傍観者のように感じる”という言葉もありました。この社会の中で生きづらさを感じるといったニュアンスでも意訳のしすぎにはならないかもしれませんね

YAMAHA MSP3で音源と一緒に演奏

YAMAHAのMSP3はいいですね!というお話です。
この使い方になぜもっと早く気づかなかったのか……。

音源と一緒に演奏したい!

ギタリストのみならず,好きな曲に合わせて演奏したいというのは多くの人が持つ願望なんだと思います。
そして,できればギターなりベースなりは自分の好きな音で鳴らして,曲に合わせて「気持ちよく」演奏したいというのが正直な気持ちでしょう。

事実,BOSSなんかも‘ギタリストのためのオーディオ・プレーヤー’として,内臓のバッキング音源やiPodWalkmanなどの音源と一緒に演奏することのできるスピーカーを発売していますよね。

BOSS AUDIO PLAYER with GUITAR EFFECTS eBand JS-10

BOSS AUDIO PLAYER with GUITAR EFFECTS eBand JS-10

この「好きな音作りをしたギターで,好きな曲に合わせて(同じスピーカーから)演奏する」というのをYAMAHA MSP3でやってみようというのが今回の記事のテーマです。
そして,可能であればiPhoneWalkmanのような携帯音楽プレーヤーを使って鳴らしたいという希望に挑戦します。

MSP3で音源とギターの音を同時再生する3つの方法

目的を達成する方法として,ぱっと思いつくものを3つ挙げてみました。
1つ目,2つ目はまあ当たり前だよなぁというもので,3つ目が今回の記事に書いておきたかったものとなっています。

  1. オーディオインターフェースDAWを使う
  2. ミキサーを使う
  3. MSP3の入力端子を活用する

1.オーディオインターフェースDAWを使う

これはまあ,そのままですね。
オーディオプレーヤーで音源を再生するのではなく,DAWに音源を読み込んでおいて好きなギターの音を,モニタリング機能などを使いながら鳴らすというスタイルです。
オーディオインターフェースのアウトプットにスピーカーを繋ぐかたちをとり,一番一般的な方法なように思います。
オーディオインターフェースをお持ちであれば,今は無料のDAWもありますから簡単にできる方法だと言えましょう。

2.ミキサーを使う

これも一般的な方法だと思われます。
ミキサーに音作りの済んだ音とオーディオプレーヤーの音を両方送り,アウトプットにスピーカーを繋げて鳴らすかたちをとります。
楽器からの入力に1~2つ,オーディオプレーヤーからの入力に2つ程度端子が必要となるので,4ch以上のミキサーを用意する必要があります。
現在はミキサーも安価となっているようですが,新たにミキサーを買い足さなければいけない人にはコストがかかりますし,ミキサーは小型であってもやや場所を取るものがすくなくありません。

余談ですが,この接続方法にするならこのミキサーにしようかなーと思っていたのはPHONICのAM85です。

PHONIC フォニック AM85 / Mixer (ミキサー)

PHONIC フォニック AM85 / Mixer (ミキサー)

入力端子が多く,あまり大きくない点がいいですよね。
ミキサーは持っていないので音の良し悪しはわかりませんが……。

3.MSP3の入力端子を活用する

こちらが今回のメインテーマです。
以下はsoundhouseさんの画像をお借りしたものですが,MSP3にはLINE1とLINE2という2つの入力端子があります。
f:id:arca821:20160324074702j:plain
これらをうまく使って音源とギター音を同時に気持ちよく鳴らそうというわけです。

  • LINE1(-10db)

説明書では‘RCAピンジャックに対応する入力端子です。’となっています。
カッコ書き内の-10dbというのを見るに,民生用と言われるような出力の小さい機材,つまりiPodWalkmanなどはこちらに繋げばよさそうです。
接続時には,(スピーカーをペアで使っているという前提ですが)オーディオプレーヤーとスピーカーのRCA端子とを接続するので,「3.5mmステレオミニプラグ―2股RCAプラグ」となっている次のようなケーブルを使います。

私はAudio Technicaのものを使っています。

  • LINE2(+4db)

説明書では‘ミキサーなどのラインレベルの信号を入力するバランス型端子です。’となっています。
業務用機器の出力を繋げるのが+4dbだそうなので,ミキサーやプリアンプのLINE OUTなどを繋げるのがこの端子です。
私はAxe-FxのOUTPUTか,Axe-Fxをオーディオインターフェースにつなげておいてインターフェース側のOUTPUTをこのLINE2端子に繋いでいます。


後は表側のパネルでLINE1,LINE2の音量を調整して,聴感上のレベルを音源とギター音とで気持ちよくなるバランスに合わせてあげれば,時間を忘れてギターを弾いてしまう環境のできあがりということです。

このつなぎ方はスピーカーとスピーカーからギターを鳴らせる環境がありさえすれば,オーディオプレーヤーとスピーカーを繋げるケーブル代1000円が追加でかかるのみなので低コストなのに満足できるのがうれしいです。
本当にもっと早くこの方法に気付いていればよかったです。

個性的であるとはどういうことか,どうすれば個性的たりえるのか

今日ではそこかしこで耳にするようになった「個性的」という言葉があります。
私は,この言葉をどのように用いてよいのかわかりません。
そこで,この記事では覚書や考えをまとめるための雑文を書くことで,「個性的」であるということの理解を目指します。
以下の文章は私の解釈や価値観が色濃く反映されており頭の中の整理整頓作業となっていますが,個性的であるということについて,私の有する思考材料を必要に応じて使った考察をしているつもりです。
あわよくば,「個性的でありたい」「個性的ってどういうことなんだろう」という問いになんらかの見解を示せればいいのですが。

ひとつの極論としての定義

まずは,「個性的」という熟語の行間(熟語なので行も何もありませんが)を補うことで,この語の解釈についてひとつの極論を導きます。

≪定義1≫
「個性的」であるとは,個別性を有しているということである。


その意味で,表面的には形態や生育環境,目に見えない部分では思考や遺伝子の配列まで自分と一致する個人を発見することは物理的に不可能であるため,人は悉皆個性的であると言える。

この定義の仕方はおそらく誤りではないでしょう。

しかしながら,昨今耳にする「個性的」という言葉をこの意味で用いている人はいないものと思われます。
ひとつの理由としては言うまでもないから,もうひとつ考えられる理由としては言語レベルで理解できていてもスケールが大きすぎて実感できないから,なんてこともあるかもしれません。

辞書的な意味のひとつとして“個性的であるならば個別性を有している”という命題は成り立つかもしれませんが,用いられる文脈を鑑みると“個別性を有しているならば個性的である”という命題は必ずしも成り立たないように思われます。

辞書的な定義

辞書的な,という言葉が出てきたので,現在その語が用いられる文脈まで考慮して語の定義がなされている(と思われる),辞書から定義を拾ってみたいと思います。
手元に辞書がなかったので,Web検索で得られる辞書からの定義を引用します。

①goo辞書
こせい‐てき【個性的】
[形動]人や物が、他と比較して異なる個性をもっているさま。独特であるさま。「―な人」「―なデザイン」

この定義を見ると,生まれながらにして個性的であるといった大意を持つ≪定義1≫の意味でも間違ってはいないように思います。

しかし,2つほど挙げられている用例や実際に用いられる文脈,例えば「今日の彼は個性的な服を着ているね」といった発言の意図はやはり,≪定義1≫を意味しません。
≪定義1≫ではとらえきれない,日々の文脈の中において特殊な意味で用いられているこの種の「個性的」という語は,かぎかっこ付きで表現し日常語としての個性的という語として取り扱います。
これまでに書いてある部分も,かぎかっこ付きのものはすべてこのルールに準じます。

後述しますが,個性的と「個性的」の差異の原因として,人と記号(デザインや創造物)の混同があるように感じます。

個性に関する定義

個性に関する厳密な定義はそれだけで膨大な紙面を割く必要があり,かつ定義しきれないように思うので,本来は避けてはいけないのですがここでは回避してごく簡単な定義をします。
この文章では,先の個別性に関する辞書的定義を一部拝借して個性を定義します。

≪定義2≫
個性とは個別性を有することであり,個別性とは他と比較して異なる外見的・内面的特徴を有しているさまである。
また,ここで述べる外見的・内面的特徴は多種多様なものがあり,個々で見れば一致するものも少なくない。
したがって,個別性があるというときには,多様な特徴が複雑に絡み合ったものの表現型としての個性が含意される。

適度に厳密な議論を避けつつ,≪定義1≫で行った定義をより細かくかみ砕いて意味を拾い上げながら個性という語の定義を行うとこのようになるでしょう。

個人的に後で見返す参考文献として以下を挙げておきます。
Baumeister,R. F.(1987).How the Self Became a Problem: A Psychological Review of Historical Research.Journal of Personality and Social Psychology, 52, 163-176.
http://persweb.wabash.edu/facstaff/hortonr/articles%20for%20class/Baumeister%20self%20as%20problem.pdf
リンク先PDF注意。
individualityについても触れられたレビューです,が,ぱっと見で個人と社会という文脈で語っているようです。

文法的な視点での理解

どうやら私自身の見解として個性的という語に≪定義1≫のような意味を強く反映させたい,つまり,個性+的として成り立っている熟語のうち個性の部分を際立たせるべきではないかという考えがあることを,書いていて気づきました。
それに関連して,個性というについても対象がほぼ人間や生物であること,複雑な特徴の総体としての個性という概念が念頭にあることが自覚されました。
こうした考えが≪定義2≫には反映されています。

そこで,個性と個性的および「個性的」の違いについてごく簡単に書いてみようと思います。

表面的な違いで言えば,誰でもわかることではありますが「的」という語がついていないことです。
なので,まずは「~的」というときの的の字について学び,考えてみます。

参考文献は次のリンク先にある文書です(PDF注意!)。
望月通子(2010).接尾辞「~的」の使用と日本語教育への示唆――日本人大学生と日本語学習者の調査に基づいて―― (関西大学)外国語学部紀要
https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/02/01mochizuki.pdf
呉 雪梅(  ).中国人日本語学習者の「的」付きナ形容詞の習得に関する研究―BCCWJコーパス調査とアンケート調査の分析を通じて―
https://www.ninjal.ac.jp/event/specialists/project-meeting/files/JCLWorkshop_no2_papers/JCLWorkshop2012_2_12.pdf

個性は言うまでもなく名詞ですが,個性的という言葉はそもそもナ形容詞としてしばしば扱われるようです。
つまり,個性的な人,個性的な考え方,といったかたちで用いるのが多いということでしょうか。

ナ形容詞,という名前からもわかるように,個性的という語は修飾語として機能するものとなります。
そのときに,名詞から修飾語となったことで接続できる語が増える,ということは往々にしてあるでしょう。
名詞であれば「個性を持っている」という表現を用いるとき無生物を主語に取れないということがありうるかもしれませんが,「個性的な○○」というときには生物だろうと無生物だろうと関係ありませんから。

それでは,すこし考えてみましょう。
次の2つのケースについて,AとBは同じ意味を差していると思いますか?それともわずかでも違いますか?

  • ケース1

A:彼には個性がある
B:彼は個性的である(彼は個性的な人だ)

  • ケース2

A:あの建物には個性がある
B:あの建物は個性的である(あの建物は個性的な建造物だ)


あくまで私見ですが,私の言語感覚ではケース1,ケース2ともに別の意味であるように思います。
ケース1のAではより抽象的な概念を扱っており,ケース2ではなにがしかの特徴について言及している,というのが率直な印象です。
ケース2では,そもそもAの表現は聞かないこともないですがあまり使いたい表現ではありません,Bは一般によく聞く表現で,Bの方がAよりも独特である程度が大きいように感じます。
この私見を軸に私個人の仮説につなげていこうと思います。

「個性的」の意味はシンプルか複雑か

個性が「個別性,すなわち他と比較して異なる外見的,内面的特徴を有している」ことだと定義され,個性と個性的との違いがありそうだということがぼんやりと確認されたところで,再び「個性的」であるということの理解に近づいていこうと思います。
今関心があるのは,「個性的」という語の持つ意味が次のどちらか,ということです。

  1. 定義1,2から推測できる個別性の意味を削ぎ落として,単純化されたかたちで用いられている
  2. 定義1,2から推測できる個別性の意味にさらに特殊な意味が付け足され,より広い言葉として用いられている

これについて,私は前者のより単純化されたかたちで用いられているという考え方を支持します。
というのも,≪定義2≫で行った個性の定義は前節ケース2のAには当てはめづらいために違和感が出てしまう一方で,Bでの表現は自然であることや,ケース1での個人的な印象を言語化したのが≪定義2≫の持つ意味の広がりであるからです。

では,どのように削ぎ落とされているのかというと,≪定義2≫を改変した次のような定義に変わっているものと私は考えます。

≪定義3≫
個性とは個別性を有することであり,個別性とは他と比較して異なる外見的・内面的特徴を有しているさまである。

すなわち,個性という概念が一種の複雑系であるという含意が抜け落ちて,他と比較して異なっているという点が強調されているということです。
私の感じていた「彼は個性的だよねー」という言葉に対する違和感は≪定義2≫と≪定義3≫の間で削ぎ落とされたものにあった,ということなのでしょう。

人と記号の混同と「個性的」であること

ここで,後述すると既に述べてあった人と記号との混同について触れようと思います。
ここまでで,(あくまで私の意見ですが)個性的であるということは個性が複雑系であるという含意を伴った表現,「個性的」であるということは個性の複雑さを切り捨てて差異があることに注目した表現であるということが整理されました。

ここから,個性という言葉や個性的という表現を使う際には総体であり複雑系としての個性が想定され,「個性的」という言葉を使う際にはspecificな部分を取り上げて「個性的な○○」という表現とすることがわかります。
そして,文法的な理解の部分で触れた接続対象の広がりという点から,個性や個性的という語は必然複雑さを併せ持った人間や,一部の芸術*1に対しては個性および個性的を,服装や髪形といった具体的な特徴については「個性的」という言葉を用いるのが今日の文脈に即した用法だとと言えるでしょう。

しかしながら,今日では≪定義2≫と≪定義3≫の間にある意味の脱落が意識されず,個性的と「個性的」との使い分けがなされていないように思います。
さらに踏み込んで言えば,≪定義3≫での使用がほとんどであると言っても過言でないのではないでしょうか。

人と記号の混同はここに端を発するものであると私は考えます。
そもそも,つとめて個性的であろうとはせずとも≪定義2≫の意味で人は個性的であると言えます。
しかしながら,現代では個性的であることが重視されるあまりに≪定義3≫の意味での「個性的」な人が増え,個性的であろうという人も「個性的」な振る舞いをしようと試みているように見受けられます。
しかし,それは個性的たろうとする主体が「個性的」であることを個性的であることと混同しているに過ぎず,服装や発言といった表面的かつ具体的な表象記号である「個性的」なあり方を,その主体が総体として有する個別性であると錯誤していることによる現象であると言えます。

この意味で,「個性的」であるという言葉は個性的という言葉だったときに持っていた厚みを削がれ,軽薄な言葉に成り下がってしまったように感じられるのです。
もしかしたら,「個性的」には別の言葉を当てた方がいいのかもしれません。
アナロジーをはじめとして,類似したものをある概念に置き換えて発する言葉はもはや本来の厚みや深み,広がりを残しておらず,ただただよく似た別の何かに変質してしまう,というのは最近強く感じていることのひとつです*2

神の言葉を神の言葉として取り入れる,というのはいささか前時代的な気もしますが,わかりやすい解説書が人気となった今*3,原典をきちんと読み,その意味を身体化させるまで幾度も体当たりするというのは,表現されている真なる意味のようなものを身中に取り入れる方法として見直されるべきであるかもしれません。

データとしての「個性的」なあり方

実は,はじめにこの記事を書こうと思ったきっかけは,お風呂の中で「個性的」な人がどのようにデータとして表現されるかを考えていたことでした。
このときから個性的であることと「個性的」であることには違いがあり,おそらく「個性的」というのは具体的特徴をピックアップしてつけられるラベルであろうと考えていたので,これがデータとしてどのように表現されるのかということに関心があったのです。

この記事で展開してきた考察に則って会話で用いられるような「個性的」な人,すなわち≪定義3≫を表現すると,私は次のようになるのだと考えます。

「個性的」な人とは,例えばおしゃれさのようなある単変量について有限母集団からサンプリングしたときに,外れ値である人,ないしは分布の中で度数が1である人のことである。

ここでいう「個性」とはこれ以上の意味をおそらく持たないでしょう。
集団の中で他と違うというだけのことです。
そして,この位置づけは相対的なものであるため,母集団の定義の仕方が変わったり性質が変わったりすると,自分以外に同じ値を取ってしまう人が出てしまう,つまり度数が1ではなくなり「個性的」ではなくなってしまうことを意味します。
また,有限母集団を対象とした単変量のサンプリングということで,要素の数にもよりますが,よほど特殊な値を取らない限りは度数が1になるということはないでしょう。

いつ「個性的」でなくなるかもわからないままに「個性的」であろうとするのは精神衛生上よくないような気がしますね。


一方で,≪定義2≫に則った個性の定義をデータで表現することを考えると,次のようにかなり異なったかたちとなることが予想されます。

個性的な人とは,有限母集団においてパーソナリティや環境要因など,あらゆる変数をサンプリングすることで構成された多次元空間上の一点である。
膨大な数の変数によるベクトルは確率的に一致する可能性こそ存在するが,母集団の成員が60億程度と有限であることも考えればかなり小さい。
例えば同じ国の人間という条件を付ければさらに成員は少なくなるため,したがって座標上の一点であることと個別性があることとはほぼ同義である。

要するに,多変量に拡張すれば,そしてその変数としてあらゆるものを考慮してあげればどう考えても人と被らないのに,という話です。
このようにデータに落とし込めば,例えば単純化して考えたいときには主成分分析などで次元を縮約して1次元の個性という変量まで変換してあげればいいわけですよね。
この変換が≪定義2≫で述べている個性に相当します*4

ここで暫定的に作った個性という変数が同じ値を取ることがあるかもしれませんが,無理やり1次元で表現しようとして情報を落としているのでそれはやむを得ないものだと思いますし,かえって事実性格や身体的特徴の似通った人などのラベルをつけてくくることで理解や説明がしやすくなるかもしれません*5

結局,個性的ってどういうこと?

「個性的」であるということは単変量における特異な値を「人と違うね」と言っているに過ぎないもので,その意味では仲間はずれや社会的常識に欠けた人も「個性的」になりかねないものです。
そのため,「個性的」であろうとする場合にはとにもかくにも奇を衒い,人と異なることをアピールするしかありません。
しかも,自分と同じようなアピールをする人がいればいるほどその人が個性だと思いこんでいる「個性」は「個性的」ではなくなってしまうということになります。

一方で個性的であるということは,個性を持とうという努力を必要としません。
空間上の点として存在している時点で個性のある存在ということです。
これだけだと月並みな“あるがままの自分を受け入れるんだ,あなたは個性的だ!”という内容のない自己啓発になってしまいそうなのですこしだけ補足をします。

最初に私個人が暫定的に出した結論を言いますと,“個性的であるということは「多変量の合わせ技が生み出す妙趣」である”ということです。
一応当初の目標は「個性的でありたい」「個性的ってどういうことなんだろう」という問いになんらかの見解を示すということでしたから。

具体的にどういうことかと言いますと,まずは多変量からなる合成変数なんだと言うことを自覚しましょうということです。
服装が個性,髪型が個性,というのはあくまで数ある変数の中でも外目にわかりやすい表現型に過ぎないのであって,無数の変数で個性が構成されているということに自覚的になることが,まずは「個性」追求脱却への一歩になろうかと思います。
単変量での「個性」は外向きに張り合ってどちらがより外れた値であるかを競い合うものですが,ここで述べる多変量での個性は,内向きに自分を見て,探すことにあたります。

自分という個体を構成する変数には何があるのか,そしてその値はどのくらいか,ということを果てしなく考え続けるのが個性的であることだということです。
こういったスタンスなので,実は総体として他者とは異なったものであるという事実だけあれば,値の大小も関係なく,他者と比べる必要はありません。
事例として失敗経験のある教師が生徒の共感を得て勉学を促すことがあるように,できなかったことや不得意なことも含めて,「どのような変数があるのか」を知ることが大事ということです。
そして,先の例に則れば教師が自身の失敗体験を語ることで共感を得る,という文脈のように値が小さかろうが大きかろうが,変数同士の組み合わせによって良い結果も悪い結果も得られる,というのが面白いところです。

蓋し,個性的な人,というのはここで展開した定義が正しいとするのならば自分をよく知っている人,そして自分を見せる(どの変数を選ぶか)が上手い人ということになるのかもしれません。
先ほど個性的であるということは,個性を持とうという努力を必要としないと書きましたが,個性的である人は自分を冷静に見つめ対話するという点において個性的である努力は十二分にしていると言えるでしょう。
ただ,努力の方向性は既に述べた通り,「個性的」が外向きに人と張り合うのに対して個性的の方では内向きであるというわけです。
人を見る前に我を見よ,ということです。

私もそうですが,案外人というのは自分のことをよくわかっていないものです。
なので,無数に転がっている材料そっちのけで目立つ材料を拾い上げ,丁寧に丁寧に洗っているだけだったりします。
目立つ材料の素材の味を活かすのもいいですが,たまには自分と向き合って素材選びをし,上手に組み合わせておいしい料理を作ってきれいに盛り付けてみようよ,ということです。

比喩は避けようと思っているのに最後の最後をわかりやすさのために比喩に譲るという謎の文章となりましたが,これにて個性的であること/日常語としての「個性的」であることとは何か,そして個性的であるためにはどうすればよいのか,をテーマとした考察を終わります。
学部のレポートを思わせる8500字の長文を読んでくださった奇特な方がいましたらば,お付き合いありがとうございました。

*1:この作品には彼の個性が表現されている,といった意味での,作り手の内的表象が具象化されたものとしての芸術

*2:私が周囲に話すときには「たとえ話の弊害」という言葉で呼んでいます。

*3:ピケティが難しい,というので解説書が流行りましたね

*4:いろいろなものをがばっと合成変量にして個性という名前を付けることが適切か,という問題はありますが……。取り込む変数によっては別種の構成概念に近いものになるかもしれませんし,このあたりは心理学徒から批判があるかもしれませんが,今回は説明のためということでご容赦を。

*5:一部領域の心理学がやっていることはこれに近いことだと考えています。

必要なのはただひとつ!PCを使わずにオーディオインターフェースを利用する方法

日に複数回更新するのは初めてですが,気分が乗ったので記事を書いています。
この記事では実験をかねて,タイトルをポップでキャッチーなものにしてみました。

問題意識

さて,今回の問題意識ですが,タイトルにもあるようにずばり,オーディオインターフェースをPCを起動させずに(i.e. スタンドアロンで)使用したい,というものです。
現在,自宅での練習環境はAxe-Fx UltraのOUTPUTからOYAIDEのNEOシリーズというケーブルを用いて,モニタースピーカーとしては定番であるYAMAHA MSP3に直接つなぐという形をとっています。

そして,録音時にはオーディオインターフェースに何本かのケーブルを差し替えるようにしているのですが,正直面倒なのとプラグの頻繁な抜き差しはちょっと避けたかったので,できるならオーディオインターフェースと繋ぎっぱなしにしておきたいという思いがありました。

しかし,私が使用しているNative InstrumentsのKomplete Audio 6というオーディオインターフェースはUSBバスパワー駆動であり,したがって基本的にはPCをセットで起動しておく必要があります。

練習したいときにいちいちパソコンを起動するというのは手間だったので,接続はオーディオインターフェースと繋いだままにしておきながら,かつオーディオインターフェースが単体で,つまりPCと繋げないで使用できないかというのが今回のテーマなわけです。

方法

非常に簡単で,AC-USBアダプタを用意するだけです。

こんなに簡単なのに記事にしてもいいのか,という考えがちらりと頭をよぎりましたが,私は安心して動作確認・実行ができるまでにすこし調べものをしたので,この情報が誰かしらに役立ってほしいなと思って本文を書いています。

PCに限らず多くのUSB(2.0)は定格出力と呼ばれる電源としてのアウトプット量が5V 500mAとなっているそうです。
したがって,コンセントからAC-USBアダプターを通してオーディオインターフェースに電源供給する際には,定格出力に倣って5V 500mAのアダプターを用意すればいいというわけです。
例えばこちら。

AC-USBアダプター(DC5V/500mA)[PSE対応]

AC-USBアダプター(DC5V/500mA)[PSE対応]

実際には5V 500mAのものでなくても大丈夫なようで,現に私は5V 1A(1000mA)のものを使用しています。

AC-USBアダプタの定格出力には「電圧(5Vの部分)」と「電流(500mAの部分)」がありますが,電圧は大きい場合機材に負荷がかかってしまうみたいですね。
一方で電流の方は最大で○○だけ流せるというだけで電源の供給先が許容する量に準じますから,多少大きくても問題はないのです。

だから,今回の場合には

  1. 電圧は標準的なUSBの出力に合わせて5Vに合わせる
  2. 電流は多少大きくてもかまわないので,500mA~1000mAくらいの範囲で選ぶ

という基準でアダプタを選ぶことができそうです。

一言でいえば,スマホ用の充電器が流用できるということですね。
先に挙げた私が使っているアダプタも,もともとはスマホ用に購入したものです。

これでPCを使わずに無事電源が入りますので,あとはダイレクトモニタリングなりなんなりをオンにしてかき鳴らすだけです。
私の使用しているKomplete Audio 6の場合には,中心にある大きなノブで操作できるメインボリュームで音量を調節できるので簡易ミキサーのようにも扱えて,モニタースピーカーやAxe-Fxの音量をいじらなくても大丈夫なのがとても便利です。
もっと早くこの方法で接続しとけばよかった。

以上,AC-USBアダプタ(スマホ充電器)を利用してオーディオインターフェースをPCなしで起動する,という記事でした。

心理学徒だから書ける文章って何だろう

森博嗣という名前の作家がいます。
すべてがFになる』から始まる犀川&萌絵コンビの活躍はドラマ・アニメにもなりましたね。

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

彼の作品を多く読んだというわけではありませんが,私は彼の文章が好きです。
文体が好き,というのではなくて,彼の書く文章が好きです。

森博嗣先生は工学博士の学位をお持ちで,Wikipediaによれば“コンクリートなどの建築材料の数値解析に関する分野(粘塑性流体の数値解析手法)”を主に専攻されているのだとか。
中学時代の友人が森博嗣先生のファンだったので,私も高校生だったか学部生だったかのときに『すべてがFになる』を読みましたが,タイトルの意味を理解したときには俗にいう脳汁が出るような快感を覚えたものでした。

森博嗣先生の文章は,キャラクターや作中で用いられるトリックなどに氏の専門性が遺憾なく発揮されている点が,私には非常に魅力的に見えます。

私もブログを書いてみようと思う程度には(巧拙は別として)文章を書くのが好きなので,先日某所で3000字程度の短い文章を晒しました。
セリフを挟まない地の文形式,一人称の語りのみで構成された文なのですが,実験的に心理学でも扱うような概念を意識して書いてみたものでした。
それ以外にも一部の場面を除いて感情を表す語は使わないなどの試みをいくつか盛り込んでみましたが,できあがったものを改めて読んでみると,やはり難しいのだということを思い知らされます。

心理学徒だから書ける文章とは何か,という問いには非常に興味があります。
安直にフロイトが~,ユングが~,なんて心理学の知識を挿入するのでない,つまり衒学にならないかたちで,心理学の要素をそっと混ぜ込む。
登場人物のキャラクター構成のような部分ではかなり可能なのではないかと思っていますし,いつか書いてみたいという気持ちもあります。

短い文章をいくつか書いていく中で,いつの日か心理学徒だから構成することのできた作品なんてものを一篇書き上げたいというのが小さな夢です。
雑記ではありますが,常に頭の中で問うていたいテーマのひとつなので記事にしてみました。

思い出の味を再現するという技術

テレビをかけていたら「決め方TV」という番組で思い出料理人と呼ばれる女性がいるのだという特集をやっていました*1
この女性は,依頼主から思い出の料理の見た目や味を詳細に聞き取り,ときに何度もやりとりを重ねながら,その人の思い出の味を甦らせるのだそうです。
関心したのは,材料を選ぶときにも思い出の味が振る舞われた当時は○○な時代背景だったから,食材はおそらくこうだろうという推理を働かせて料理の味を再現しようとするところです。
放送を見ていて深い知識と専門性を感じ,見た目・味ともに限りなく満点に近いものを提供するという姿勢はプロフェッショナルという言葉がふさわしいでしょう。
甦った思い出の味に思わず涙ぐむ姿などは,不覚にも目頭を熱くさせるものがありました。

これを見ていて,人は記憶をどこまで残すことができるのだろう,特に故人の何を残せるのだろうという疑問が頭に浮かびました。
今日では写真や動画,ボイスレコーダーなどで視覚および聴覚面での保存は容易になりました。
もちろん,いつ何があるかわからないということを常に意識し,いろんな場面を保存しようとしているのかは別問題ですが。
五感のうち残すところは嗅覚,触覚,味覚で,今回の思い出料理人さんは味覚面で故人の記憶を呼び覚ますものだと言えるでしょう。

味覚の保存は意外と難しいもので,古くから調理レシピなんてものがありますがその通りに作っても同じ味にならないとよく聞きます。
例えば,同じレシピで10人の人が肉じゃがを作るよう指示されれば,文字通り十色の肉じゃがができあがることが予想されますし,全く同じ食材を使うという制約を設けても違いは生まれてくるのでしょう。
加えて,料理というのは味覚で認識される味意外にも舌触りや食感のような要素があり,個人的な予想ですがこれらは触覚的な性質を持っているのではないかと思います。
当然においという要素もあるわけなので,浅学の身でこのような表現を使うのは憚られますが,料理という刺激は多感覚なものであると言えるように感じています。

そう考えると,この番組で見た思い出の味の再現というのは,今や直接は観測できない複雑な刺激を知識と非常に高度な技術で再構成する常人離れしたものであるように思われますね。
この記事を書き始めたきっかけは味覚を保存するものづくり,というのができないかという安直なものでしたが,書いているうちに方向性が変わってこんな発散した文章になっています。

私の軽薄な思い付きは記事を執筆しているうちにあっという間に立ち消えてしまいましたが,途中で掲げた疑問である,人は故人の何を残せるのかというのは個人的に重要な問いであると思っています。
そして,この問題に心理学徒,統計学徒として立ち向かっていきたいし,そうすべきであるということを強く意識しました。

以上,思い出料理人のことを忘れたくないということで書き始めた雑記でした。

*1:2016年3月14日OAの,第23回だと思います。